
(株式会社 松栄堂 代表取締役社長/
京都経済同友会文化の発信を考える研究委員会 委員長)
今日は「寛永行幸四百年祭」に際して、『「企業にとっての文化力」〜文化力を磨き、企業価値を高める』を含め、私が思うことをお話しします。「松栄堂」という会社は、お香という日本文化に直結したものを扱っております。社内ではこんなことを、こんな発想で取り組んでいますというようなお話をさせていただければと思っております。
歴史に関わるときに大切なのは「慮る」こと
来年(2026年)が「寛永行幸四百年」ですね。1626年に徳川幕府の二代将軍の秀忠公と家光公の二人がわざわざ入洛されて、後水尾天皇の行幸を仰がれたという大きな出来事がありました。
実は私は歴史がすごく好きなんです。歴史に関わるときに私たちが一番大事にしないといけないのは、「慮る」ことだと思います。その時代、あるいはその前後の時代はどんな環境だったのかということを、できるだけ、一生懸命、「慮る」ことです。
最も悪いのは、その事象を聞いて今の自分の価値観で、「大変だな」とか「しょうもないな」というようなコメントをしてしまう。今の自分の情報や価値観、物差しで、それをやっていても何の意味もありません。その時代はどういう価値観だったのか、その方々はどういう世界観や宇宙観、宗教観、恋愛観を持ち、どんな人間社会だったのかということを「慮る」ことは、とても大事だと思います。
それと、出会ったキーワードに振り回されないことも大切です。「寛永行幸」と聞いた時に、その事象だけを見ていてもあまり意味がない。後に「寛永行幸」が歴史の節目として語られていますが、その前後にどんなことがあったのか。あるいは、あれほどの絵巻や絵画が今日に伝えられている背景には何があったのかも大切。「寛永行幸」という事象だけにとらわれないことです。
例えば、鑑真和上といえばその人のことだけを考えると思いますが、実は鑑真和上に代表されるあの時代の渡来人たちなど、その人が生きていた時代の背景や周囲の人などを慮る。大きく膨らましながら物事を慮った方が、歴史はより楽しくなると思います。
天皇家と幕府との距離感
「寛永行幸」は1626年に行われましたが、少し考えてほしいのは、1586年から1611年に、後水尾天皇の前に後陽成天皇の時代があったということです。後陽成天皇の前半の部分は、秀吉公の時代です。太閤秀吉とのやりとりがあり、その中で聚楽第に後陽成天皇も行幸されていることを知ると、「寛永行幸」だけが突出しているわけではないことがわかります。
天皇に武門の世界にお運びいただくというのは、秀吉にとって憧れの世界ですが、後に秀吉が後陽成天皇からの政治的な後ろ盾を失ったことを知っているかどうかで見方が変わると思います。また、秀吉自身は武門の出ではないため征夷大将軍になれなかった。それでどうするかというと、宮中から位をもらって関白を目指します。そのため、秀吉は後陽成天皇と非常に丁寧にお付き合いをされました。
しかし、徳川家康をはじめ、徳川家は武門の出であり、征夷大将軍という立場で幕府を開いている。そのため、宮中や天皇に対して敬意を表しつつも、しっかりと距離を取ります。秀吉のように、両手で支えて大事にするような態度では接しません。後陽成天皇は、秀吉と徳川家の時代の両方を体験された方です。
ましてや後水尾天皇は、秀吉の時代の天皇との丁寧な付き合い方を知りながら、全く違う幕府との距離感に、はらわたが煮えくり返るような思いをしながら対応された。天皇家と幕府との距離感も考えるべきです。良い悪いではなく、やはり人間が生きる社会だったのだと思います。
東福門院の入内
1600年に関ヶ原の戦いが終わり、1603年に徳川幕府が開かれたとされています。1611年に後水尾天皇が即位され、後陽成天皇が退位されました。その後、東福門院を後水尾天皇のもとに嫁がせるという話が起こります。ですが、大坂の陣が起こったり、その後家康が亡くなったりといろいろなことがあり、なかなか東福門院を京都へお輿入れさせることができない。
そんななかで大坂夏の陣が終わります。寛永文化を考えるときに忘れてはいけないのは、「元和の偃武(えんぶ)」という時代です。「偃」というのは、物を伏せる、伏して寝かすというような言葉で、武器を置く世を迎えた。1615年から24年まで、ようやく平和な時間が流れます。
1620年に東福門院がいよいよ入内されます。ご存じかと思いますが、東福門院は秀忠のお嬢様で、お市のお孫さんでもあります。NHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」になったお江の娘です。浅井家の一番下のお嬢様の娘で、信長の妹の孫。筋金入りのお姫様が、徳川幕府、徳川家のために都へ移れと言われて入内をされるのですから、大変なことだったでしょう。
『二条城行幸図屏風』がありますが、それと同じように東福門院の入内についての『東福門院入内図屏風』もあります。それを楽しみながら「寛永行幸四百年祭」を迎えてほしいと思います 。
1615年、大坂夏の陣の際、「禁中並公家諸法度」という法律が作られます。禁中つまり朝廷内の法律を幕府が作ったのです。外から禁中の文句を言ったり覗いたりするのを一切禁じている。
中国の北京の紫禁城もそうですよね。紫禁城というのは、紫の禁じられたお城です。 禁中というのは、私も含めてここにいる全員がとやかく覗いたりすることを一切禁じた中の話なんです。それが雲の上にいらっしゃる、あの「堂上公家社会」です。ここにいる全員は地下(じげ)といって土の上に控えている立場です。それなのに、禁中の力を持った徳川家が、禁中の法律を作ってしまったのが「禁中並公家諸法度」です。
そういう関係のため、宮中がはらわたが煮えくり返りそうなのをグッと抑えて我慢するなんて、とんでもないことだったと思います。そんななか東福門院が嫁がれた。東福門院お一人が嫁がれたら可愛らしいのですが、お供が何千人といて、その人たちが御所の中に入ってきます。床がギシギシいうとか、夜のこの時間になるとどこで誰と誰が密会しているとか、全部筒抜けで江戸幕府に報告がいきます。禁じた中が全部ガラス張りになってしまう。それが東福門院の入内だったのだと思います。
後水尾天皇の譲位と院政
その後、有名な「紫衣事件」があります。天子様が修行されたお坊さんに紫の衣をご褒美としてお出しになるのを、所司代が「誰の許しを得てそんなことをなさるのか。まずは幕府にご相談いただかないと困る」と止めてしまった。3人のお坊さんは江戸幕府まで訴えに行かれて、そのうち2人は島流しになってしまったという有名な事件が起こります。
京都の宮中は悔しさを抱えながらも、そういう時にできることが一つあるんです。ご存じですか? どうしようもない時にできることが一つあります。私も松栄堂という会社の社長をまだやっていますけど、どうしようもなくなったら、最後にできることの一つは辞めることです。これは実は古代からずっとそうなんです。
幕府は天子様が退任するとおっしゃると、「それだけはお待ちください。そこまでおっしゃらず」といってお話を聞きながら、「次をきちんと決めていただいてから退任してください」というやり取りが続きます。
1629年に後水尾天皇は譲位されました。その時に自分の娘を明正天皇として即位を決め、その後に辞めました。でも後水尾天皇はこの後、院政を敷かれます。これは、この時代の非常に大きな特徴で、院政というと平安時代だけのことだと思うのですが、実は、明正天皇、その後の後西天皇の時も、まだお元気で頑張られるのです。
寛永文化の起こる背景
もう一つ、ぜひ覚えておいてほしいのは、このあと1630年代に「鎖国」の状態になります。そして最後はご承知の通り、長崎の出島のみになるとされますが、実は出島だけではなく、薩摩藩の島津家は琉球貿易を非常に活発に行いました。
NHKの大河ドラマ『べらぼう』でも出てきましたけど、北の方ではまた樺太、松前との接点があったり、本当の意味で島国が閉ざされたのではなく、わりと海外との交流はありました。けれども、基本的には鎖国が始まります。一方で1630年代に入るまでは、数多くの南蛮貿易をした時代なのです。これを忘れてはいけない。
もう一つは、1657年、江戸の町に「明暦の大火」が起こります。何が言いたいかというと、私たちが大事にしたいと思っている寛永文化、その後の元禄文化の時代には、まだ江戸は町づくり、都市計画を進めている最中で、それが焼けてリセットされた状態になってしまいます。
全国から集まった武家社会の大名家が、お互いの距離と格式を一生懸命測り合っている社会なんです。文化を作るような余裕は全くなかった。しかしながら、江戸に出た北と南の大名家の間で婚姻を結んだりします。その時に嫁に出す方は、婚礼調度を準備しなくてはいけない。その婚礼調度がどういうものであるべきか。一つ間違うと大恥をかきます。
そのためには、京都の堂上公家社会などに問い合わせて、『源氏物語』『古今和歌集』『伊勢物語』を揃えてほしいというようなことがあったと思います。そして、徳川家の婚礼のレベルを上回ることだけは絶対にあってはいけない。こういうことも江戸の町では、一つの物差しが出来上がっていった時代だと思います。
1600年代の寛永時代、寛永文化というのは、非常におもしろい時代だったと思います。南蛮貿易が頻繁に行われたこと。京都の角倉了以、茶屋四郎次郎など、さまざまな方の話があります。それだけではなく、大名家も南蛮貿易の船を出していたような時代です。
1600年に関ヶ原の戦いが終わって1630年代に鎖国が始まるまでの 30年間。現代での30年間というのは、人生のワンクールみたいに思われません? 江戸時代の人たちの寿命の中での 30年間は、少なくとも親子二代、あるいは三代ぐらいを重ねる時代だったと思います。
鉄砲やキリスト教が伝来しました。次に何が来るのかなと思って待っている私の横で、「俺行ってくるわ」と南蛮船に乗って行った友達がいたと思うんです。渡来するものを待っているだけではなく、こちらからもどんどん人が出ていった。だから日本人町がたくさんできました。どれだけの文物が我が国に入って来たか、それをどうやって使うべきか、いつ使うのか、どう評価するのか。評価する物差しは、京都の堂上公家社会の教養文化しかなかったのです。
まだ江戸は、大名家がお互いの権威や家の格などを作り合っている時代ですから、そういったことが全然分かりません。だからこそ、それを評価してきちんと使う術などを整えていったのが寛永文化なのです。
東福門院が入内されたと一口に言いますが、東福門院がお越しになることで、千人ほどのお付きの人が宮中に入られた。それと共に、経済的なことに関わる人も堂上公家社会に出来てくるわけです。
さきほどの「禁中並公家諸法度」もそうですが、政治も政(まつりごと)と経済です。政治と経済は江戸幕府に完璧に奪われてしまい、取り上げられてしまったのですが、文化力だけは、江戸の幕府の人たちにきちんと対抗措置の力になることが実感されていきます。それが寛永文化の時代なのです。この辺りも京都にとって非常に大事だったと思います。
そして堂上公家社会だけではなくて町衆文化、それを支えたものづくりの技術が自ら活力をもって花開いたのが、いわゆる琳派のような形になったのだと思います。是非この寛永文化の前後を楽しんでいただきたいと思います。
中国では、農耕民族が狩猟民族に変わる時代
もう一つ大切なのは、「寛永行幸」の後に、中国では清が興って明が滅びました。それを機に、農耕民族が狩猟民族に取って代わられました。これは、司馬遼太郎の本にも出てきます。狩猟民族たちが南下してきて、農耕民族に従わせるために、髪の毛を残すのか首を残すのかと、このような迫り方をしたそうです。つまり、髪の毛を残すのなら辮髪をしよう、辮髪の風俗が嫌なら首を落とすかと。これは司馬遼太郎の小説に書かれていたことですが、 それほど民族の入れ替わりは激しいものでした。
だから、私たちは京都でずっと 1200年の歴史を享受しているつもりで、中国の影響を受けたと片付けてしまいますが、どの時代のどの人たちの影響を受けたのかをはっきりしないといけない。
ご承知の通り、影響を受けた元は騎馬民族でしょう。もし対馬のあたりが陸路がつながっていたら、京都の町は砂埃で騎馬民族たちが走り回ったと私は思います。それが起こらなかったのは、海という物理的なフィルターがあったおかげではないでしょうか。
なぜかというと、騎馬民族はヨーロッパあるいはアラブの世界まで走って行っているわけですから、そんな世界の歴史の事実を思うと、海のこちら側まで来られなかったのは、単純に馬で走り込めなかったからではないかと私は思っています。そのようなことも含め、歴史の面白さを慮っていただきたいです。
「経済人として文化を磨き、企業価値を高める」
今日のテーマになっている「経済人として文化を磨き、企業価値を高める」ですが、知識や技能、経験のような、なかなか数字では測れないコンテンツ力は、実は皆さんの仕事の中にたくさん蓄積していると思うのです。そういうものを文化資本と捉えて、よりレベルアップ、磨き上げていこうという意識を高めることが大切だと思います。
良い会社というのは、どうしてもバランスシートや自己資本比率、株価など、数値で置き換えるようなものばかりが問われるのですが、そうではない企業の価値、組織の価値があるのです。文化資本の増強により企業価値を高め、いわゆる社会的に尊敬される企業を目指そうという発想で日常を重ねていくことが大切なのではないでしょうか。
では、「文化力」とは、「文化」とは何なのでしょう。それを「人を育てる力」と置き換えてしまった方がわかりやすい。「人を育てる力」を大事に見つめて実践することだと思います。
会社が大きいとか、マーケットが大きいとか、製造量が多いとか、そういう話ではなく、日常の積み重ねの中で人材が育つ会社。それをそれぞれが目指しながら、会社が集積している地域社会、京都はそういうことをもっと意識していこうと。実は、十分そうなってきた歴史があるのではないかとも感じます。
2025年6月7日(土)の京都新聞の朝刊、経済面10面の右上に、「未来との約束」という切り口の小さいコラムがあります。そこに「京都らしい企業経営のあり方」というテーマで、コミュニティーバンクの京都市京都信用金庫の理事長を務めていらっしゃる榊田さんが書いておられました。
「経済複雑性という数値では測りきれない企業価値というのをもっと見つめませんか。これがこれからの企業のあり方ではないですか」という言葉でした。「懐の深さや余白や間。そういう言葉で表現される、数字では捕らえきれない、形としても見えないけれど、みんながそれぞれ持っているこのようなことを、もっとしっかり見つめて大切にしていきましょう。それが京都らしい企業経営の在り方ではないでしょうか」という問いかけでした。
「さすが、我が意を得たり」と、読ませていただきました。今日お預かりしたテーマの答えとして、皆さんにももしよかったら2025年6月7日(土)の朝刊をもう一度検索してほしいなと思ってご紹介しておきます。
「松栄堂」について
残りの時間で松栄堂の話をしようと思います。烏丸二条で日本の香りを作っているメーカーとして活動し、「不易流行とイノベーション」というテーマで、伝統産業の可能性を模索し続けています。
家訓として、「細く長く曲がることなく、いつもくすくすくすぶって、あまねく広く世の中へ」ということが語り継がれてきています。これが私たちのスタンスです。まさにお線香が燃えていく姿です。火には花火のような力強いものもありますが、常にくすくすくすぶり続けるものもあります。それで消えて冷たくなったら意味がありませんが、熱を帯び続けることが非常に大事です。
ある特定の方向だけを目指すのではなく、世の中へあまねく広がりを持つことをいつも意識しています。とにかく「温故」を実践しよう。「温故知新」と言いますが、前を向いて生きているわけですから、「知新」はみんなしています。それよりも「温故」を本当に知る。「温故」とは何かというと、それはさっき申し上げた歴史を「慮る」ことだと思います。
ご承知の通り、寛永文化の時代に香道が形作られていきます。弊社は、それを体験していただく機会を作っています。例えば、1974年から毎年「お香とお茶の会」を続けています。お茶会は頻繁に行われていますが、みなさんご自分が所属されている流派のお茶会ばかりなんです。だから、よその流派のお茶会へ行かれる機会は滅多にないのです。
我が社の「お香とお茶の会」は、松栄堂の文化教室で普段からお稽古をしておられる皆さんの発表会です。表千家流と裏千家流、松月流煎茶道。お香も御家流と志野流と5つの教室があり、みんなで一緒に発表会をします。普段訪ねる機会のない、よその世界でお互いが交流されるので非常に面白いと思います。
ほかにも小学校から大学、海外といろいろなところに出かけて、日本の香りの話をしています。特に子供たちに日本の香りを体験してもらうことはとても大切です。今の日本社会では、世代間の縦の物事の継承が行われる機会が少ないと思うんです。意識的に世代を越えてものを伝えていく、体験してもらいたいと思っています。
「文化力」とは、「人を育てる力」
社内では、さまざまな取り組みをしています。そのなかの一つに「私たちのための新年コンサート」があります。1996年、北山に京都コンサートホールができた年から続けています。
社員とその家族、普段出入りしてくださっている取引業者の方々をお招きし、みんなで一緒に新年のひとときを楽しもうという催しです。過去25回恒例にしていて、演目もお能やオペラ、マリンバやゴスペル、パントマイム、講談、メキシコのマリアッチなど様々で、みなさん毎年楽しみにしてくださっています。
「社員研修会」では、徳島に行き、チーム対抗で阿波踊り体験をした年もありました。娯茶平連(ゴジャヘイレン)という有名な連のベテランに手ほどきをいただき、生のお囃子でみんな汗だくになって大興奮の楽しい経験でした。
他にも「和太鼓演奏会」「大合唱」「地引網」などいずれもその道のスペシャリストに教えていただきながら、次から次へと挑戦をしています。
「文化力とは?」ということですが、「人を育てる力」と置き換えると楽しくて仕方がありません。
「日本の香り」を発信する
現在、おかげさまで私の会社はたくさんのお客様に支えていただいておりますが、十年、二十年後に私たちのお客さまはどこにいらっしゃるのかと考えると、やはり「日本の香りというものがあるんだよ」ということを、しっかりとアウトプットすることが重要だと思っています。
実際に香りに出合ってもらうことは、とても大切です。特にこのデジタル社会では、スマホでさまざまな情報を得たつもりになりますが、香りというのはスマホには入り込まない大事な情報の一つです。
烏丸二条の薫習館という建物で発信しておりますが、おかげさまで若い方も含め非常に多くの方が足を運んでくださっています。デジタル社会だからこそ、香りに出合ってほしいと思います。
機会があれば、ぜひお香を焚いてみてください。ただ、香りを楽しんでいただいたらいいんです。そのなかに日本の伝統的なお香があることを、時々思い出していただけると嬉しいです。
2025年6月20日「寛永1626交流会」
主催:Living History KYOTO
会場:京都ブライトンホテル
写真提供:株式会社松栄堂
本講演会の講師を務められた畑 正高氏は、2025年8月9日にご逝去されました。ここに謹んで哀悼の意を表し、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
本稿は、畑 正高氏がご生前に本講演会においてお話しくださった内容を記録したものです。豊かなご経験と深いご見識、そして貴重なお言葉を後世に伝える記録として、株式会社松栄堂様のご理解とご協力を賜り、ここに公開いたします。
寛永行幸四百年祭実行委員会