7月25日、十四世喜多六平太記念能楽堂にて、渋谷ユネスコ協会・中央区ユネスコ協会主催による「寛永行幸と能楽 ― 戦国の世にピリオドを打った文化外交 ―」が開催されました。
当日は、寛永行幸四百年祭実行委員会の濱崎加奈子プロデューサーによるプレゼンテーションに続き、寛永行幸でも演じられた演目「源氏供養」の仕舞、「熊坂」の半能を上演。その後、東京大学名誉教授で能楽研究者の松岡心平氏、喜多流シテ方能楽師・金子敬一郎氏、十四世六平太記念財団理事長も務める近衞忠大氏、濱崎加奈子による座談会が行われ、寛永行幸が日本の能楽史に残した足跡について、多角的な視点から語られました。
「文化が社会をつくる」
濱崎プロデューサーが語る、寛永行幸四百年祭
冒頭では、寛永行幸四百年祭実行委員会の濱崎加奈子プロデューサーが、本プロジェクトの趣旨について紹介しました。寛永三年(1626)に行われた寛永行幸は、後水尾天皇を二条城へ迎え、舞楽、能楽、和歌など当時の最高峰の文化をもってもてなした国家的な文化事業であったこと。
そして、寛永行幸を単なる歴史的行事として振り返るのではなく、「文化が社会をつくる」という寛永時代の精神を現代へ伝えることこそが、四百年祭の目的であると説明しました。

四百年前の演目を、四百年後の能楽堂で
続いて披露されたのは、喜多流シテ方能楽師・大島輝久氏による仕舞「源氏供養」、喜多流シテ方能楽師・塩津圭介氏による半能「熊坂」。いずれも、寛永行幸で実際に北七大夫(後の喜多七大夫長能)によって上演された演目です。
喜多流シテ方能楽師・金子敬一郎氏は、「源氏供養」について、紫式部が『源氏物語』という創作を著したことで地獄へ落ちたという中世の説話を背景に、舞によってその魂を供養する作品であると解説しました。また、当時は「優れた舞や歌には、人の心を浄化する力がある」と考えられていたことにも触れ、芸能と信仰が深く結びついていた中世・近世の精神文化を紹介しました。
一方、「熊坂」は、大盗賊・熊坂長範と牛若丸との戦いを描く躍動感あふれる作品です。金子氏は、「能は静かな芸能という印象を持たれがちですが、『熊坂』は非常にエンターテインメント性が高く、見ていて楽しい作品です」と語り、寛永行幸という晴れの舞台で選ばれた理由にも思いを巡らせました。
寛永行幸が変えた能の歴史
座談会前半では、松岡心平氏を中心に、寛永行幸が日本の能の歴史に与えた影響について議論が交わされました。松岡氏は、寛永行幸で上演された「能九番、狂言七番、《翁》を含めると十七の演目」について、「これほど大規模で充実した能の上演は、それまで例を見ない前代未聞の催しだった」と説明。寛永行幸がいかに壮大な国家的文化事業であったかがうかがえます。
さらに松岡氏は、当日の番組が当初の予定どおりではなく、大御所・徳川秀忠の意向によって演目が追加・変更されたことにも触れました。実質的最高権力者の前将軍自らが番組編成に関わったことからも、能が政治と文化を結びつける重要な存在であったことが読み取れます。
話題は、当日もっとも注目を集めた能役者、北七大夫へと及びます。松岡氏は、七大夫を「当時のスーパースター」と表現し、その卓越した芸が高く評価されたことが、後に喜多流が成立する大きな契機となったと解説。そして、今回の会場はまさに喜多流ゆかりの場所であり、寛永行幸を語るうえで象徴的な会場であることが紹介されました。

後水尾天皇が能をご覧になった歴史的意味
座談会の中でも、とりわけ印象的だったのは、後水尾天皇が本格的に玄人の能をご覧になったことの歴史的意義についての議論でした。松岡氏は、中世以来、「玄人の猿楽を禁中に入れない」という考え方が長く続いていたと説明します。
天皇が本格的な能を鑑賞する機会は極めて限られており、寛永行幸はその歴史を大きく転換する出来事だったのです。二条城で後水尾天皇が将軍家による本格的な能を鑑賞したことは、能が武家社会の芸能という枠を超え、国家を代表する芸能として位置づけられていく大きな転換点となります。
一方で、『徳川実紀』には、この能について「密々の儀」と記されています。松岡氏は、これを、従来の宮中の慣例との折り合いをつけながら、新たな文化秩序を築こうとした当時の繊細な政治的配慮を示す記録として読み解きました。
このように、四百年前、二条城で行われた一日の能は、単なる芸能の上演ではありませんでした。それは、朝廷と幕府が新たな時代の文化を共有し、日本文化の新しいかたちを示した歴史的瞬間でもあったのです。

四百年の時を経て、文化を未来へ
寛永行幸四百年祭が目指しているのは、歴史を懐かしむことではありません。四百年前、日本各地の文化が京都に集い、磨かれ、再び全国へ広がっていったように、現代においても文化が人と人、地域と地域を結び、新たな価値を生み出していく。その営みを、寛永行幸という歴史を通して見つめ直すことにあります。座談会の最後には、それぞれの立場から、寛永行幸四百年祭が未来へ伝えようとしているメッセージが語られました。
金子氏は、寛永行幸で上演された番組を振り返りながら、それが単なる芸能の披露ではなく、「能とは何か」を天皇へ示すために緻密に構成された番組であったと推察しました。
「『翁』には、その場を清め、儀式としての空間をつくる意味があります。そこから始まり、さまざまな演目を通して、『能とはこういう芸能です』ということを、天皇にお見せするための番組だったのではないでしょうか。能楽は、その時々の権力者や町人、そして観客の皆さまと関わりながら、四百年という時間を受け継がれてきました。こうして今も能楽堂が残り、演じ続けられていることに、大きな感慨を覚えます。」(金子氏)

そして、松岡氏は、能の歴史とは、異なる立場の人々が出会い、新しい文化を生み出してきた歴史でもあると語りました。
「世阿弥や観阿弥が足利義満に見いだされたことは、日本文化史の大きな出来事でした。上層と下層、異なる立場の人々が交わることで、新しい文化が生まれた。そのダイナミズムこそが、能の魅力だと思います。」(松岡氏)
また、江戸幕府による保護についても、単に生活を保障した制度ではなく、流派同士が互いに高め合う競争の仕組みであったと評価。さらに、本阿弥光悦、俵屋宗達、小堀遠州など、寛永文化を彩った多彩な人物にも触れ、「寛永文化には、まだまだ研究すべき魅力があります。私自身、新しい研究テーマが見つかったと思うほど、大変刺激を受けました」と語り、今後の研究への意欲も示しました。
濱崎プロデューサーは、寛永行幸四百年祭は、四百年という節目を祝うだけの事業ではなく、未来への新たな出発点であると強調しました。
「四百年前から受け継がれてきた文化があるからこそ、私たちは今日、この豊かさを享受することができます。だからこそ、十年後、二十年後、百年後へ向けて、私たちは何を残し、何を伝えていくのかを考えることが大切です。節目は、私たちに気づきを与えてくれるチャンスです。みんなでこの四百年を大切にしながら、次の時代へ何を築き、何を伝えていくのか。その未来を、皆さんと一緒に育んでいきたいと思っています。」(濱崎プロデューサー)
そして、最後に近衞忠大氏はこの日の議論を「平和とより良い未来への文化外交」という言葉で締めくくりました。
四百年前の演目を鑑賞し、その背景にある歴史や思想を学び、未来へつなげる――。喜多能楽堂での「寛永文化と能」は、能という日本を代表する芸能を通して、寛永文化の奥深さと、「文化が社会をつくる」という四百年前の精神を、来場者一人ひとりに伝える貴重な機会となりました。