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2026年9月28日

講演「外国人が見た寛永京都の文化」タイモン・スクリーチ氏(国際日本文化研究センター教授)

「寛永行幸四百年祭/開幕記念フォーラム・レセプション」
(2026年4月12日)

ただいまご紹介いただいたスクリーチです。この集まりに招いていただき、寛永年間における海外人が京都をどう見ていたかについて話すことに決めました。しかし寛永年間ほど、外国人が京都に来ていない時期というのも、あまり無いのです。

というのも、だいぶ前にイエズス会士がバテレン追放令を受けてもう日本にいないので、イエズス会士による京都に対しての記録はありません。それと、「イギリス東インド会社」が寛永年間の前夜(1623年)に日本を撤退し、その10年ほど後には島原の乱のせいでポルトガル人も追放されました。

寛永年間は日本に居る外国人が比較的、少なかった時期です。しかし、その間にシャム国の日本使節団がイギリスと同じ時期に来ています。ちょうどイギリスが撤退のために京都に来たころ――というのも当時、将軍が京都におられたので、イギリスが「日本を出ます」との報告をするため、最後の挨拶をしに来たのです。また、ちょうど同じ時期にシャムの大使が京都にいました。残念ながら僕はシャムの記録は読めないのでそのことについて今日は話せませんが、非常に面白い将来のテーマになると思います。

それと寛永年間中、オランダはかつて平戸に商館がありましたが、無礼なことをしたせいで将軍に怒られ、松浦家が領した平戸から長崎に行かされました。ですが長崎は御蔵地、いわゆる天領でしたから、もっと見張ることができるところにオランダ人は移動させられます。その年(1641年)から、ほぼ毎年、長崎から江戸に行き来することとなります。いわゆる参府、つまり政府に参る行事が始まりましたので、寛永年間には、オランダ人は少なくとも毎年京都を2回通りました。江戸へ向かう途中と帰路で2回です。

これからオランダの話をしたいと思いますが、その前にまず寛永年間以前の江戸初期、京都に対して、非常に面白い記事を残した人物について紹介します。

1人目は、スペインの貴族で、1609年に来日したロドリゴ・デ・ビベロ・イ・アベルサ。フィリピン臨時総督としてフィリピンに滞在して、任務が終わり、メキシコ経由でスペインに帰国する最中、日本で船が難破し、房総半島に上陸しました。京都に来る前にビベロ氏が江戸に連れて行かれて、徳川秀忠に謁見しています。ビベロ氏はもちろんヨーロッパの一番きれいな有名都市に行ったこともありましたが、江戸に入ったとき非常に感動しました。あまりにも感動したため、こういう文章を残しました。

「感嘆と畏敬の念に満たされていたが、スペインの都市が劣っていると彼(将軍 徳川秀忠)に思われたくなかったので、その気持ちを悟られないようにした」

とにかく将軍に江戸に対して非常に感動している様子を見せれば、スペインが日本ほどよくない国だと思われてしまう、それは困ると思っていましたから、なるべく江戸に対しての感動を表情に出さないようにしました。その後、江戸から京都に連れて行かれ、3日間まるまる京都で観光をしました。1日目は内裏(だいり)、御所です。2日目が方広寺にあった大仏と豊国社(豊国神社)です。3日目が三十三間堂でした。1日で御所を観光するというのは、難しいと思います。本人も、実は見られなかったと言っています。当たり前ですよね。いくらスペインの貴族でも、いきなり御所に入ることはできません。でも、1日観光したと言いますので、おそらくまちのあちこちを見たと思います。

2日目は、大仏と隣にあった豊国社です。大仏は現存しませんが。豊臣秀吉を豊国大明神として神格化し、彼の霊廟(れいびょう)を兼ねての社(やしろ)です。この2か所と3日目の三十三間堂は、当時、距離が近いこともあってワンセットでした。

最初に訪れた大仏について、ビベロは、

「世界七不思議の一つに数えられるに違いない。その中で最も素晴らしいものと肩を並べるほどのものではないとは言い切れない。

これは、私がこれまでに見た中で最も完璧に仕上げられたものだ」と、この訪問は最高な出来事だったと記録しています。

次の行き先、豊国神社に対しては面白いことを言いました。おそらくスペインにいる読者のためだと思われますが、スペイン国王の離宮と比較したのです。その「アランフエス」は当時、ちょうど出来上がったところで、秀吉の霊廟と同時期に造られた建物です。

「(アランフエスにあるスペイン離宮と比較して)その場所の自然の美しさや心地よさという点では両者に遜色がないとはいえ、その魅力はむしろ人為的な工夫によるものと言える」

このように、地形など自然の美しさからいえば等しいものの、正直にいって秀吉の霊病の方が美しいと言いました。今も「アランフエス」はありますが、残念ながら秀吉の霊廟はもう現存しません。

その後、宿泊施設に戻ったビベロは、3日目、三十三間堂を見に来ました。ここでは、

「日本人は金属細工の分野において卓越しており、その技は最高水準の熟練度と完成度を誇っている」と、やはり非常に感動して、素晴らしいところだと言っています。

ただしキリスト教が、一神教で神像が1つしかないのに対し、三十三間堂はバーッと1000 体の観音様の像がありますので、ちょっと多すぎて途中で疲れたと言いました(笑)。

2人目は、ビベロの数年後に京都に来た、リチャード・コックスというイギリス東インド会社の商館長です。1613 年に来日し、10年間、日本で暮らしています。来日から3年後、いよいよ上洛することができました。彼の詳しい日記によりますと、非常にドキドキしていたと、都に対していろんなことを聞いていたのを、やっと自分の肉眼で見ることできるのが楽しみだ、と。

コックスも当然、大仏を見に行きました。そして、やっぱり素晴らしいと、(ビベロと)全く同じことを言いました。

「とても新鮮で、見ているだけで心が躍る。

要するにこの寺院は私がこれまで見た中で最も素晴らしいものであり、世界七不思議のどれにも引けを取らないほどである」と、〝世界七不思議〟の中に数えるべきだと言いました。で、その後、豊国神社に行って、こちらも素晴らしいと述べています。もともとの文章はさらに長いのですが、今日は時間がないので一番重要なポイントだけ触れたいと思います。

コックスは時間がなかったので、同じ日のうちに大仏と豊国神社、三十三間堂を訪れました。三十三間堂で観音像についての面白い記録を残しましたが、それだけではなく、有名な風神雷神像についても記録を残しています。

僕が知っている限り、自分の肉眼で見た風神雷神像で記事を残している人はコックスが最初です。日本人はあまり記録を残していないと思います。

このお寺は現在、入場料を払えば誰でも入れますが、天皇家のお寺なので、当時はそういうわけにはいかなかったと思います。コックスは外国の特権があったので、入場することができました。本人も、お金を払って入れてもらったと言っています。

現在とディスプレイが異なりますが、観音像の後ろに風神と雷神の2体が展示されていたのを見て、「(観音像の)後に二体の奇形者が立っていた。一体は風の入った袋を肩に担ぎ、もう一体は多くの鼓が付いた輪を首に巻いていた。一体は風を、一体は雷を思わせた」と記録しました。

コックスは日本に来る前にも商人として日記を残しています。来日前は数年間フランスに住んでおり、そこでスパイの仕事をしていました。イギリスの政府のために、ロンドンへ密かにレポートをどんどん送りました。もしかしたら彼が東インド会社の商館長として選ばれた理由の1 つは、商人でありながら密かに情報を集めることできる生活の経験があったからかもしれません。日本にいる間に商売とは関係のない情報を集めてロンドンに送りました。その書簡の中で、京都の文化に対してさまざまな面白いコメントを残しています。

まず、西洋人が〝都(みやこ)〟と言うことについて。南蛮時代は、都という言葉が普通でしたけれども、江戸に入るともうあんまり都という言葉を聞かなくなり、だいたい〝京(きょう)〟と言うようになっていましたので、コックスは、まずその西洋人の間違いをなおし、日本人が京と言うと伝えました。

そのほか、いくつかのコメントを残していますが、三十三間堂や風神・雷神像の素晴らしさも述べています。その手紙を受け取った人は、国王・ジェイムズ1世のいわゆるスパイマスターである、サー・トーマス・ウイルソンです。

彼は、現代でいうとたくさんの店が1階に入っているデパートのような目立つ建物に事務所を構えていました。というのも、ウイルソンは、公で保険事務所を担当しており、保険事務所には誰でも出入りできたからです。そこは実はジェイムズ1世、つまり国王の、スパイセンターだったわけです。

スパイセンターの中でいくつかの日本からの書簡を受け取ったもののうちの1つは、コックスからでした。まずは〝都(みやこ)〟という言葉の間違いを伝え、〝京〟と呼ぶべきと伝えています。それと三十三間堂についても述べ、手紙がどんどん長くなるので、最後にコックスは「全部語る時間がないので、神様が許せば無事に帰国してからお会いして、この文章で抜けたところを説明します」と書きました。残念ながらコックスはイギリスへ帰る途中で亡くなりましたので、京都の素晴らしさについて話すことはできませんでした。残念です。

ウイルソンはこの京都からの書簡を非常に面白いと思い、国王にもこの書簡を回す手配をします。そのとき、「世界の果てからのものであり、陛下にとって(もしお暇な時間があれば)良い気晴らしになるものです」と書き添えました。このことにより、ジェイムズ1世は、風神雷神像について知りました。

さて、ここまでビエルとコックスを紹介しましたが、オランダ商館が行き来したのは寛永年間ですので最後の時間で、そのときのことについてお話ししたいと思います。

当たり前ですが、その時代=17世紀の初頭になると豊臣家は滅びており、外国人を豊国神社へと連れて行きません。徳川幕府がひいきした、浄土宗の知恩院に連れて行きました。オランダ人が毎年、京都を通る時に利用した宿泊施設は三条大橋の近くにありましたから、知恩院に行きやすいところでした。知恩院では、住職とお茶を飲みました。素晴らしいことですよね。そして日本を代表する、非常に大きな三門や、輪蔵(経堂)などを見ることとなります。いずれも、江戸期に建てられたものですから、まだできたばかりの建物でした。また、非常に大きく有名な梵鐘(ぼんしょう)があって、これはオランダ人が行き交うようになったわずか5年前に造られたものでした。

そして知恩院を見てから近くにあった、祇園社へも行きました。今でいう八坂神社ですよね。明治の廃仏毀釈の際に知恩院の境内が縮小されたせいで、今は知恩院と祇園の間にちょっとすきまがあります……円山公園です。

それ以前はもともと、知恩院と祇園はほとんど隣同士でしたから、知恩院を出てそのまま祇園社に入る、といったかたちでした。現在は、出入りが西の川沿いに面している門ですが、正門は実は南のほうです。当然、オランダ人がこういう風に通って正門から出て、いよいよお昼休みにしたくなってきたら、現存する素晴らしい石の鳥居と門の間にふたつの茶屋がありました。「二軒茶屋」というところでオランダ人たちは昼休みを取ったんです。

ほぼ毎年そこで、お昼休みにしたのですね。(茶屋の様子を描いた)「拾遺都名所図会」は時代が下がって、江戸の中期後期の絵ですけれども、右側に川柳が書かれています。

「阿蘭陀(オランダ)が細工に行かぬ 我国の 祇園豆腐の 柔らかによろくぶ」

オランダ人は、だいたい京都を通る時に細工物を依頼しました。長崎で手に入らないものを依頼して江戸へ行き、帰り道にそれを購入したんです。けれど、祇園豆腐があまりもおいしいから1日だけ、その商売のことをやめて祇園へ行って豆腐を食べた、と言うんです。それくらい祇園豆腐は有名でした。江戸の画家・喜多川歌麿の絵にも出てきます。歌麿は京都を描かないので、祇園豆腐の店が江戸にもあったようです。

だけど、オランダ側からいえば、ちょっと解釈が違ってきます。もちろん人によっていろんな反応がありましたけども、「祇園豆腐は、あまりおいしくない」と言っています(笑)。「味がない」と。まあ、「最初のひと口が、あまりおいしくはないんだけど、食べれば食べほど、なんとなくおいしくなる」と……まあ、いろんな意見がありました(笑)。

オランダ人がそこで休憩を取る理由は、祇園豆腐ではなく、都の人々を見る機会として、でした。(スクリーンに映っている)絵を見れば、武士階級の人や傘をさす人、男女も、いろんな人が行き交うようすが伺えます。皆さんも今、せっかく京都にいらっしゃるので、お時間があったら、八坂神社の南門と鳥居の間にある二軒茶屋にいらしてみてください。もう豆腐は売っていませんが、今も茶屋はあります。

さて、祇園社でお昼を食べた後は当然、大仏のある場所へやって来ます。

「Engelbert Kaempfer: The history of Japan」は、1727年に出版された有名な本ですが、著者のケンペル(1690年~1692年に〈オランダ東インド会社〉の外科医として日本に滞在した知識人)が長崎から京都を通ったとき、本当はしてはいけないことをしました。スケッチです。オランダ人が日本に対しての情報を記録することは禁じられていました。ケンペルが急いで、見られないようにスケッチをしたものが残されていて、その中のひとつは大仏ですね。

(スクリーンに映っている)右側はケンペルの原稿が後に出版され、彼のスケッチをプロの画家が描き直したものです。イギリス人のプロの画家の絵です。

残念ながら大仏は、江戸後期で焼失してしまいました。けれども、オランダ人の記事によるとその焼失に対して、日本の記事には出てこないいろんな面白い話が出てきます。今日は時間がありませんが、いつかそのことについても話したいと思います。オランダ人は、だいたい日本の逸話をそのまま書きます。当時の京都人は、「これは放火だ」と言っていたそうです。

その後は、三十三間堂に行き、耳塚(みみづか)へ。時間がもうなくなりましたので、これが最後のスライドとなります。耳塚は悲しい、一種の戦争のメモリアルな場所ですが、この「都林泉名所図会(みやこりんせんめいしょずえ)」で、大仏が焼失した次の年に出版された本です。残念ながら、大仏を見せられないのですが、耳塚をお見せしました。

読みやすいガイドブックで、全部和文ですが、いきなり(このページは)漢文になります。時間がないので、ざっくり翻訳すると、ここには「オランダ人が耳塚を見て、現代日本は海外へ出兵しないけれども、日本は強いのだと知り、怖く感じました」と書かれています。

京都に来た外国人に対して、いろんな文化財を見せたその裏で、日本の強さも見せたかったのでしょう。そして、本当に見せるべきだったと、私は思います。この時期、あちこちで西洋人が海外で植民地をつくっています。外国からの輸入品が必要だといえども、注意しなければならないと、幕府はわかっていたのだと思います。

― 以上です。ご清聴ありがとうございました。

行幸行列再現まであと●日!